淀川歴史散歩

―第13回―

十三(じゅうそう)とその周辺

■「十三」の起源と立森瑞神(ずいじん)

立森瑞神
 十三の名前の由来は、大化改新の詔(646・天皇のお言葉・日本書紀)のとき、土地区画法として「条里制」が採用され、それに基づくものと言う説があります。条里制は、60歩四方を里といい、この6町方眼を連ねて行き、横(東西)列を条、縦(南北)列を里として計算しました。西成郡飛田を1条とし、北へ順に重ねていくと13条目が今の十三に当たり、更に北へ18条は今も地名で残っています。また別の説では、淀川の上流から数えて13番目の渡し場が今の十三辺りになるといいます。(阪急電車十三駅付近)。木川西四丁目にある「立森瑞神(縁起のいい神)」は、大正の頃から“野中の巳(み)さん(高倉大明神)”として人々に親しまれ、また石の小狸三体(オタケ・八郎・長吉大明神)があって、巳さんは商売繁盛、お狸さんは安産・病気平癒に効くとあって、参拝者が絶えません。
 同公園内には、明治29〜39年(1896〜1906)にヨハネス・デ・レーケ指導の新淀川開削を記念した「淀川改修記念碑」もあります。この工事で当地区海老江村北部の90町余が新淀川河床になりました。阪神電車野田駅歩10分JR東西線海老江駅徒歩5分。

■光用寺と中島大水道図
 北中島は古来しばしば淀川・中津川・神崎川の氾濫の被害を受けていました。悪水排除が困難で住民の苦しみが大変なため、関係する22カ村のうち、大道村の沢田久左衛門・新家村一柳太郎兵衛・山口村の西尾六右衛門の三庄屋は、水道開削の願書を度々江戸幕府へ出しました。やっと出た許可は工事費一切地元負担という過酷なもの。再度の願いに許可も取り消されやむを得ず、農民たちは22カ村結束して、延宝6年(1678)、着工からわずか50日の突貫工事で、現東淀川区から淀川区を抜け西淀川区に至り大阪湾に直結する2里10余町(全長約9.5km巾19m)の大水道を完成しました。しかし、許可無視の責任を受けた3庄屋は1カ月後に切腹。人々の壮挙は、明治の淀川大改修までの約230年間、その機能は失われず北中島に恩恵をもたらしました。「光用寺」は西中島7丁目にある僧行基開祖の浄土真宗の寺で、3庄屋の菩提を弔うため六右衛門の祖母が難病の人々を救った言い伝えがあります。


同境内の石の3狸
■正通院(しょうつういん)と蔀関月(しとみかんげつ)

蔀関月墓所のある正通院
 地下鉄御堂筋線「西中島南方」駅と阪急電車「十三」駅の間の東西方向に淀川通りが走っています。途中、淀川寄りの木川東一丁目(市バス停・木川西二丁目から徒歩5分)に「正通院」があります。江戸中期の延享三年(1746)創建の曹洞宗寺院で、境内の墓地に、大坂の画家「蔀関月」や大坂天満組・南組の総年寄りを歴任した金谷三石、その子息で歌人の金谷遷斎の墓があります。関月は絵の修行とともに和漢の古蹟を研究して「法橋(ほっきょう)(得の高い僧や画家などに贈られる)」に叙せられました。多くの著書の中に「伊勢参宮名所図会」「山海名産図絵」「近江名所図会」「須磨明石名所図会」などの名所紹介図を残しています。杉本章子の小説「写楽まぼろし」にも写楽の治助が放浪の途中大坂の本屋に勤めたその若主人として登場。寛政9年(1797)51歳で没。

記:滝本明




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