一行の淀川に、物書き達の夢を見る
 川に沿って人は住む。その暮らしに沿うように、川もまた人々の記憶の中を流れている。それはとても自然な事だ。文学にしばしば川が登場するのは、時間という川に人が沿って生かされていて、心に物語が発生するからだと私は思う。川はその象徴なのだ。友人に誘われて、1998年の「よしぶえ」から淀川歴史散歩のコラムや詩を書きはじめた。

 私は昭和18年の大阪生まれだが、歴史的な淀川を詳しく知らない。父は戦死していて、親類預けの少年時を過ごした。母と此花区で暮らした中学生の頃、友達と淀川河口によく出かけた。昭和30年代頃の堤防は土の道で、護岸は石積みの長い斜面だった。夜明け前の岸辺には、ハゼ釣りの人達がいっぱいだった。夏には手製のヤスで、石垣の間のウナギ突きをよくした。河口左岸横の日立造船沖は遠浅で、葦の間をイナが走るように泳いでいた。後に「大阪文学学校」で詩を教えてもらった小野十三郎さんは、この大阪北港付近の重工業地帯を「葦の地方」と呼び、短歌的抒情を排した厳しい風景を詩にされた。

 今思えば危険極まりないが、満潮時に数人で、伝法大橋下から板切れに掴まり下流の向こう岸に泳ぎ着いたことがある。真ん中の本流は黒々としていて、河童が出ると噂されていた。対岸の畑でもいだキュウリがうまかった。後で知ったが、対岸の伝法町には少女時代の富岡多恵子さんがいたらしい。彼女は小野さんに師事した。

 私が知る限り、「淀川」を最も多く現代詩に書いたのは、寝屋川の農民詩人井上俊夫さんである。井上さんは戦後の詩の前衛グループ「山河」などに属されていて、小説も書かれていた。私は文学学校で教えを受けたが、歴史資料の交野郡庄屋の覚え書をそのまま詩作品にした「惣七家出一件」は衝撃的だった。「三十石船」も詩にされていて、半裸の船乗りたちが掛け声をかけ方向転換するシーンがドキュメント的で迫力があった。「井上俊夫詩集(五月書房)」には「鳥飼の渡し」の章がある。その中の1編「宝積寺三重塔」は、山崎天王山中腹の寺で、塔とそこからは見えない淀川をスケッチする少女の幻想的な話である。[宇治川、木津川、桂川という三つの河が まるで三角関係を精算するため 心中することにきめた 一人の男と二人の女のように 手に手をとりあって落ちのびて行くうち ついに一本の淀川と化する いわゆる三川合流地点の艶な風景を 背にして立つがゆえに この塔はいよいよなまめかしく また常にこの塔をみあげながら流れるがゆえに 山崎付近の淀川はいやがうえにも 臈たけた流れとなって行くのだ]…。井上詩のミステリアスでエロチックな展開が私は好きだった。私の歴史散歩は山崎地区から始まった。毛馬地区には蕪村碑がある。30年程前だった。今は中原中也の研究家として著名な詩人の佐々木幹郎が、淀川の水門管理の会社で働いていた。大雨の時訪ねて来た若い藤井貞和(詩人・源氏物語の研究者)らは、大堰のゴミ取りを竹竿で手伝わされた。私も土手の仮設の事務所で半日話し込んだことがあった。当時佐々木は、高まる学生運動から離れ、毎日淀川の水を眺めながら蕪村のことを考えていたはずだ。蕪村が生まれた毛馬村は石碑から300米の淀川本流内にある。「春風馬堤曲」「澱河歌」で、帰ることのなかった故郷の淀川を、老年になって歌った天明俳壇の革新者の心…。後に蕪村論を出版するこの友人は、若い蕪村のように上京した。

 千年前の紀貫之、旅の西行、蕪村、西鶴、谷崎潤一郎…。資料には淀川に佇む様々な物書き達が登場する。時に時空を超え、私も彼らの目で長い一行の物語のような堤の上に立ってみる。

滝本 明


大阪夕陽丘・口縄坂に立つ筆者

ナンバー 滝本 明

たきもとめい。昭和18年3月29日大阪生まれ。詩人・フリーライター。第一詩集「たきもとめいの伝説」で三洋新人文化賞。
新梅田シティ工事塀壁詩で第一回大阪市都市景観アメニティ表彰。99年第四詩集「パースペクティヴ(砂小屋書房)」。他制作多数。

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