淀川歴史散歩

―第12回―

天文学者間長涯(はざまちょうがい)と海老江周辺

■羽間文庫と淀川改修記念碑

海老江中公園南側に立つ
淀川改修記念碑
 淀川河口から5km地点の左岸、淀川大橋南詰上流側に河川公園海老江地区があります。堤防のすぐ下の町の海老江中公園北側に、江戸時代の天文学者間重富(はざましげとみ)(長涯・1756〜1816)に系譜をもつ間家(建物は戦後)があります。現在、同家で集められた貴重な機器や暦法資料は寄贈され市立博物館に所蔵されています。「寛政暦(かんせいれき)」は江戸時代に造られた3回目の暦で、間らが西洋の暦法を初めて取り入れたものとして知られています。その前の宝暦暦は43年間用いられていましたが、寛政の頃にはしだいに誤差が多くなっていました。正確な暦に作り替える時期に来ていたのです。当時すでに、西洋の暦法を用いて造られた中国の暦とその説明書、西洋の測器類が日本に輸入されていました。これらを用いて正確な暦を造ることは多くの識者の望むところでした。しかし、当時造暦の任があった幕府の天文方は、才能を持たず、改暦が出来ない状態でした。幕府は、大阪の民間学者麻田剛立(1734〜99)に改暦のことを命じました。剛立は門弟の間重富、高橋至時(1764〜1804)を推薦し、2人は寛政7年(1795)に江戸の天文台に入りました。翌年天文方も加わり、彼らは当時輸入された中国の「暦象考成」上下編・後編を基にし、京都の里差を算入、さらに剛立の消長法を加えて暦法を造り2年間の実測でこれを確かめました。暦は「寛政丁巳(ていみ)(9年)暦」と呼ばれ、天保14年(1843)までの45年間用いられました。
 同公園内には、明治29〜39年(1896〜1906)にヨハネス・デ・レーケ指導の新淀川開削を記念した「淀川改修記念碑」もあります。この工事で当地区海老江村北部の90町余が新淀川河床になりました。阪神電車野田駅歩10分JR東西線海老江駅徒歩5分。

■海老江八坂神社
 海老江中公園内にある八坂神社の祭神は、素戔皿鳴尊(すさのをのみこと)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。境内の石灯籠の年号が天治(1124)とも大治(1126)とも読める事から、創建はかなり古いと想像されます。以前の産土(うぶすな)神(土地の守護神)は牛頭(ごず)天王社(半獣神で仏教の地獄の番人)でした。毎年7月18日の夏の大祭は、地車・枕太鼓が巡行し祭を彩ります。また、府の無形民俗資料に指定されている饗神事(八坂神社の頭屋行事)が、年3回今なお続けられています。地域の悪竜退散祈願に始源があるとされているこの行事は女人禁制。神饌を献じる屋内だけの儀式は長年口述で伝えられ、神事と共に白竜が舞い上がった伝説が残っています。地名のいわれは、当地が古くは海中にあって海老洲と呼ばれていたからだと言います。海老江村は、中津川河口近くの洲・渚が中世以来開拓された低地で、古くから多くの池沼がありました。仏教を弾圧した物部守屋が、3人の尼を池に沈めた話(摂陽群談)もあり、江戸時代村内に悪水排除の樋を伏せた歴史があります。


海老江八坂神社の楠の木陰は涼しい
記:滝本明




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