淀川と共に育った環境を21世紀の子供達へ

 人は一人では生きてゆけません。人から人へと知識や文化を伝え長い年月を経て、伝統は継承されているのです。そこに、歴史があります。

 私は紀貫之の土佐日記にもでてくる鵜殿(現高槻市道鵜町)で誕生、母なる川─淀川の水を産湯に使い、鵜殿のヨシ原の大自然と共に還暦を迎えました。

 鵜殿のヨシ原は淀川河口より上流約30キロメートル地点にあり、面積約60ヘクタールの河川敷に広がっています。ここには、女ヨシ(セイタカヨシ)・男ヨシ(オギ)と地元の先人が呼ぶ大型湿地植物が広がり、四季を通し淀川河川敷の他では見られない素晴らしい景観に目を楽しませてくれます。

 子供の頃、学校が終わると道才浜(三十石舟の港)から生活用水の水汲みが日課であった。この仕事が終わると仲間達の集合場所・道才の渡船場(ヨシで造った渡船客待合所)をめざし、ヨシ原内にある渡船場への道500メートルを全力疾走した。船頭は地元の人で客待ちの間にワンド・タマリ・ヨシ原に生息する魚貝類・野鳥・小動物や雲の流れを見て天気予報の話など自然を大切に生きよと教えてもらったものだ。遊び場のヨシ原内には陣地や迷路を作り子供だけの遊びを生み出した。陣地には中・大学生も来て勉強や宿題もよく見てくれた。また、女ヨシに木綿針とタコ糸を使ってウナギの穴釣の仕掛けも伝授、淀川本流のチンショー(沈床=大きな石積み)で大漁に歓声を上げた。

 正月三ヶ日が終わると鵜殿のヨシ刈り取りが始まり、60ヘクタール全てを刈り取った。子供達も応援、束ねたヨシを堤防まで搬出した。ヨシは入札。ヨシズ・建築材料・燃料・管楽器の材料として加工販売、地元の生活の糧になった。2月の終わりには鵜殿のヨシ原焼きが始まる。立ち枯れヨシはなく落葉だけで、自由に点火出来た。当時のヨシ原には野生動物の隠れ家(穴)が沢山あって、煙で飛び出したタヌキ・キツネ・イタチが焼野原を逃げまどった。追っかけて火灰の中に転倒、大火傷。母が百足の油「生きた百足を油(ナタネ)漬けにした自家製特効薬」を塗ってくれ、今思うと命の尊さや共存共生の精神をも教えてくれた様な気がする。

 40年程前に鵜殿のヨシ原をゴルフ場に、と3回話があった。最近では平成2年にもあった。が、私達の先人は代々“ヨシ原を大切に生きよ”と語り継がれ、地元の生活と関わりが深く見送られた。近年、淀川上流部ではダムが建設の他、改修や流量調節が行われヨシ原の冠水が無くなり、陸地植物が急速に勢力を強めている。今年も春の風物詩として定着しているヨシ原焼きが訪れた。地元でヨシの保全育成のため実施について入念な準備をするが、昨今のヨシ原焼きは雑草やヨシの立ち枯れが多く点火すると火の勢いが強力で、風向きにより近隣市町村から降灰による苦情の処理、飛び火による火災警備体制等地元住民の理解を得るのに苦労している。また、21世紀前半に鵜殿のヨシ原を挟み東に第二名神高速道路、西に牧野高槻線が予定され自然景観も大変貌する。鵜殿のヨシ原は今、保護保全のためだけではなく、自然景観・文化・歴史などの面からも国や府の総合的な支援が必要だ。

 淀川本流にはチンショーをウナギの寝床・ワンドを小魚の住家・タマリを野鳥や小動物のエサ場・浜を釣場・渡舟場道をふみわけ道・排水路を魚の生息出来る親水川にと私が子供の頃育った環境や歴史を子孫に語り伝え、鵜殿発の「夢」の実現に向け楽しく弟2の人生を送っています。

平城 守


  2月13日、ヨシ原焼きの日の筆者

ナンバー 平城 守

ひらぎまもる。昭和8年10月5日生まれ。現在、道鵜町自治会長・鵜殿実行組合長・高槻市農業委員会常任委員・
大阪府北部農業共済組合推進委員・神安土地改良区、高槻市東部土地改良区理事の他、役職多数。

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