淀川歴史散歩

―第10回―

蕪村碑と毛馬周辺

■蕪村碑
 「芭蕉にかえれ」と説いた天明俳壇の革新者、南宋画家としても知られている与謝蕪村。春風や堤長うして家遠し…、淀川河口から10kmの左岸河川公園毛馬地区の堤防上に蕪村の句碑があります。ここは毛馬閘門の北側で、蕪村生誕の地として有名です。後に子規や朔太郎も近代性を認めたこの「郷愁の詩人」は、享保元年(1716)摂津東成郡毛馬村の豊かな農家(谷口姓)に生まれました。時代は八代将軍吉宗の復古的抑圧政治が始まる時でした。早くに父母と家を失い、20歳頃江戸に出て早野巴人(夜半亭宋阿)の内弟子として俳諧を学び、号を宰町から宰鳥と称しました。師の没後26歳の時、常陸結城・下総の知人を頼り、さらに芭蕉の跡を慕って奧羽地区を10年間放浪、俳諧と画技を練りました。この間に蕪村と改号。宝暦元年(1751)京に移り、次いで丹後与謝地方に4年を過ごし、42歳の時京に戻ってからの10年間は南宋画家として活動し、池大雅と並ぶ名声を得ました。明和八年(1768)離俗の師の夜半亭を継承。晩年まで画・俳諧の活動は止まず天明三年(1783)京で68歳の清貧の生涯を閉じました。冒頭の春風や…の句がある<春風馬堤曲>や<澱河歌>は61歳で故郷の毛馬を思いつくった作品群で、馬堤は毛馬堤、澱河は淀川のこと。蕪村は門人への手紙に「幼童之時、春色清和の日ニは、心友だちと、此堤ニのぼりて遊び候。水ニは上下の船アリ、堤ニは往来の客あり(中略)実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候」と述べており、故郷を出て再び帰ることのなかった詩人が幼い日に遊んだ当時の淀川が偲ばれます。句碑によれば、生まれた村は北方300mの新淀川本流内。毛馬地区へは大阪市バス毛馬町二丁目下車歩10分。


蕪村碑

■毛馬の閘門と淀川大堰
 明治18年(1885)の淀川大洪水は有史以来と言われ、大水害になりました。同29年から43年にかけて淀川の大改修が行われ、直流する新淀川が掘削されました。この際、毛馬で新淀川と分岐する旧淀川(大川)への水量調節と上下流の舟運の便のために建設されたのが毛馬の閘門と洗堰で、オランダ人技師ヨハネス・デレーケが設計。煉瓦造りと鉄扉構造で明治40〜43年に竣工し閘門の一部は現地保存、付近には淀川改修紀功碑もあります。昭和47年に二百年に一度の大洪水に耐えられるよう大堰と閘門の工事が始まり同58年(1983)に完成。大堰は日本最大で径間55mのメインゲート4門、調節ゲート2門、両端に魚道も備えています。


旧毛馬閘門

淀川大堰

記:滝本明 



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