公園の歴史と共に歩んだ私の軟式野球人生

 淀川の河川敷にスポーツ広場を造ろうという運動が始まったのは、昭和50年前後だったと思います。当時、私の住んでいる大阪市福島区にはスポーツをする場所が少なく、早朝まだ暗い頃から野球をする場所の確保に苦労しました。

 そんな状況の中、広場を造るために福島区の僅か32チームが中心となって行った近畿地方建設局公園課への働きかけが実を結び、淀川の河川敷・海老江付近に土の搬入をお願いし、全員でスコップや鍬などを持ち寄り整地作業などに汗を流しました。やがてグラウンドが完成。その運営のための協議会を発足したところ、福島区内外から100チーム近い参加の申し込みがあり、他の地域でもスポーツの場が少ないのは同様だと痛感しました。休日には、朝から暗くなるまで、より広い地域の人達と一緒に野球大会や時には大運動会などを催し、スポーツする喜びを分かち合い余暇を楽しんで頂きました。そんな中、若い人達とのふれ合いを特に大切にし、スポーツを楽しみながら自然に体力作りをしたり、また少年野球の指導にも顔を出すなどして、私なりに充実した何年間かを過ごしました。

 その頃の河川敷のグラウンドにはバックネットなどもなく、もう少し設備の整ったものにできないかという意見が多くなり、協議会参加チームが中心となり再び運動を始めました。私達、スポーツ愛好者を最初から支援して下さった方々の助言や指導を仰ぎ、各方面の人達の多数の署名を携えて国会にお願いに行きました。が、淀川は国有地一級河川のため、福島区だけを対象には考えられないので淀川全域を対象に検討したいとの返事でした。その後、防災・自然保護(野鳥、野草等)・スポーツ等各分野の専門の方々からなる委員会が設けられ、約1年半の検討を経て、淀川全域にわたる河川公園の青写真が完成しました。淀川河川公園は着工後も時代の波を取り入れながら多種多様な施設が整備され、今日に至っています。

 河川公園の管理は(財)河川環境管理財団に移り、協議会チームは同財団が河川公園で開催する春と秋の「淀川河川公園野球大会」に参加することになりました。私はチームの監督として出場するかたわら、大会運営委員会のメンバーとしても重責を担い、より良い大会になるように頑張ってきました。現在、この大会は社会人軟式野球大会としては、全国一大きな大会に育っています。中学時代に良き師とめぐり会い、始めた野球。いつの時代も少年の夢は甲子園。その夢は果たせませんでしたが、代わりにこの大きな大会で春3回・秋2回優勝の幸運に恵まれ、東京ドーム2回、西武ドーム1回の東西決戦の出場が叶いました。また、運営委員会の審判として東京ドームでの主審も務めることができ、私の野球馬鹿人生も思い残す事はありません。そして、淀川河川公園の歩みと共に過ごした長い年月の中で、沢山の人とめぐり会い、多くの友人を得たことは、私の人生の中でかけがえのない大きな財産になっています。

 3年前から、淀川河川公園管理者として野球大会の運営委員とは違った立場から、年々増加する施設利用者の皆さんに、余暇を公園で十二分に楽しんで頂けるよう努力しています。日々公園を巡回して感じることは、犬の糞の後始末をしない飼い主、禁止されているゴルフの練習をする人などなど公の場を自分のものと勘違いしている人がいて、理解に苦しむことが多々あります。公の場で人に迷惑を掛けないためのルールが守れない人が多いというわけです。

 マナーが良くなり“禁止の看板”が1日も早くなくなることを・・・。

渡辺 徳男


   海老江地区を巡視中の筆者

ナンバー 渡辺 徳男

わたなべとくお。昭和10年3月21日大分県生まれ。昭和38年に上阪。同40年軟式野球チーム結成。
淀川河川公園野球大会運営委員会会長を経て現在顧問。趣味はスポーツ。現在、(財)河川環境管理財団に勤務し、公園管理に従事。

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