淀川歴史散歩

―第8回―
江口の里と平田の渡し
■江口の里         図-A

 淀川が湾曲し、大阪市内に入る右岸に神崎川との分岐点があります。この一帯は江口と呼ばれ、平安・鎌倉時代から近世にかけて水上交通の要所でした。この地が急速に発展し始めるのは、延暦四年(785)に淀川と三国川(現安威川の下流)との間に新川を掘って、二つの川の水路が結ばれてからでした。この工事で江口の地は、平安京から山陽・西海・南海の三道を必ず通る所の宿場町として大層繁栄しました。とくに平安中期以降は、紀州熊野・高野山、四天王寺・住吉社への参詣が盛んになり、往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られ、11世紀末の大江匡房の『遊女記』には「天下第一之楽地也」と記されています。遊女たちは群をなし小船を操って今様を歌いながら旅船に近づき、旅人の一夜の枕を共にしたと言います。彼女たちは多才で、歌舞・音曲にすぐれ、中には和歌をよくする者もいました。名妓として名を残したのは、小観音・中君・子馬・白女・主殿。その名から、彼女たちの人柄が偲ばれます。とくに有名なのは、西行との歌問答で「新古今集」に収録されている遊女妙です。仁安二年(1167)旅の途中、雨宿りのための宿を断わられた西行は、「世の中を厭う間でこそ難からめ 仮の宿を惜しむ君かな」と歌を詠みます。ところが思いがけず女から返歌があります。「世の中を厭う人としきけば仮の屋に 心とむなと思ふばかりぞ」。意気投合した二人はその夜を語り明かしました。妙は平資盛の娘で没落後遊女に身を落としたそうです。この話は中世説話集に脚色され、後に観阿弥の謡曲「江口」になります。その妙が発心して庵を作ったのが始まりとされているのが江口の君堂(寂光寺)という尼寺。境内には妙の墓、歌碑があります。東淀川区南江口三丁目にあり、阪急京都線上新庄駅から淀川方面へ2.1km、市バス高井田行き「江口の君堂前」下車。


西行と妙の歌碑


江口の君堂(寂光寺)
■平田の渡し跡      図-B
 淀川の右岸、河川公園豊里地区には、豊里大橋橋詰に出る堤防上に、「平田の渡し跡」の碑が初夏の川風を受けて涼しげに建っています。この辺りは、下流のヨシの群落や対岸のワンド風景が美しく淀川を代表する場所のひとつと言えましょう。石碑は、南向きに建ち対岸の旭区の同渡し跡石碑(太子橋地区)と向かい合っています。碑の側面の文字には、「この地は丹波地区や大和地区への要地で、淀川両岸は渡船で結ばれていた。江戸期には淀川上下の川舟改め番所があり、平田番所ともいった。昭和五十六年大阪市建立」とあります。付近四か村を合わせた天王寺庄村の代表格の平田村の呼び名が当てられました。また今市渡しとも呼ばれ、江戸中期には対岸の京街道から河内の野崎観音参りの人々で大いに賑わいました。
右岸に建つ平田の渡し跡碑

記:滝本明




戻る 次へ