移りゆく淀川で、子供達の遊びと夢を育てる

 私は、淀川左岸の寝屋川市仁和寺で生まれ育ち、10歳の時仁和寺を離れますが、25歳で結婚と同時に仁和寺に戻ってきました。淀川河川公園というより淀川との長い長いつきあいです。遠い記憶の中では、仁和寺野草地区はゴルフ場であり、他は葦が生い茂り現在の河川公園とはほど遠いものです。また、佐太には渡しがあり、時には対岸まで足を伸ばし遊びに行ったものでした。小学校の高学年から中学時代にかけては太公望を気取り、時に釣った魚が夕食の一つとして食卓を飾ったものでした。造られた河川公園ではなく本当の河川公園だったと思います。

 高校・大学時代は硬式野球部でランニングに明け暮れる毎日で、辛い思い出も詰まっています。卒業後、寝屋川市の軟式野球連盟(社会人野球)に加盟したことで学生時代とは違ったつきあいが始まることになりました。その頃は、だだっ広い原っぱでグランドと呼べるものではなく、春になると石ころ拾いや土の搬入、台風シーズンには大雨で河川敷が水没することもあり、その都度、整備は大変でした。現在の河川公園に点在する球場は野球人にとっても、また寝屋川市にとっても恵まれた施設だと思います。

 30歳前後になるとメンバーも仕事で忙しく、またそれぞれの子供が小学校へ上がる年齢となり、家庭サービスのためにも集まることが困難となりました。チームは自然に消滅してしまいましたが、河川敷は野球場でなく、子供と遊ぶ場所へと移り変わりました。

 その後、中学2年生の長男(現在ボーイズリーグ全枚方所属)が友達に誘われて小学2年の秋、学校の学童野球チームに入部。以前から私は「少年野球の指導を」と夢見ていましたから、その日から土・日・祝日はつきっきりでした。小学3年になったときチームの指導者の一人となり、再び河川公園を利用することになりました。「野球の指導」といっても技術云々ではなく、泥まみれになって子供達と遊ぶことが野球でした。春は花粉症と闘い、夏はギラギラ照りつける太陽の下逃げ込む陰もなく、秋には低学年は外野でバッタ捕り。過ごしやすい季節は短く、雪が公園を白く覆う日もありました。その時は野球どころではなくなり、指導者全てが少年時代に戻り子供達と熱い雪合戦。1年を通して正月しか休みもなくプロ以上の練習量でした。指導者として子供達が毎週楽しめることが課題でした。子供達の野球に対する情熱とは裏腹に、土・日・祝日のグランド確保はとても大変で、月一回行われる野球場使用の抽選日には父母の協力を仰ぎ、朝早くから淀川河川公園を管理するサービスセンターへ出向いていただいたものです。

 また指導者として各大会や行事に参加することで学生時代の同級生や先輩後輩達とも逢う機会ができ、親交を深めまた試合結果に一喜一憂できるのは、ひとえに子供達のお陰だと感謝しております。

 この春、河川敷で育った子供達が学童野球から少年野球へ、そして少年野球から甲子園を目指す高校球児へと大きく出発、悔いなく活躍することを期待しています。

木戸 伸二

 
学童野球チーム恒例のもちつき大会での筆者と同長男

ナンバー 木戸 伸二

きどしんじ。昭和31年2月25日生まれ。小学4年で野球の魅力に取り付かれる。

学童野球のマネージャー、コーチ、監督を経て、現在長男と共にボーイズリーグでマネージャー、審判員として活動中。

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