淀川歴史散歩
―第7回―
文禄堤とその周辺
■文禄堤と京街道      図―A
 京阪電車守口市駅を淀川の方向に歩くと、すぐ立体交差に出会います。上の橋は本町橋でそこを通っている道が「文禄堤(別名慶長堤)」です。天下統一を果たした豊臣秀吉が文禄三年(1594)諸大名に命じて作らせたもの。本能寺の変(1582)からわずか1年で22カ国を平定した秀吉は、翌、天正十一年(1583)に大坂城を築城して居を構え、同十六年に淀城、次いで文禄三年に伏見城を築くと、淀川左岸を修築させ堤の上の道路を整備させました。大坂−伏見間を最短距離で結ぶこの堤防道の当時の長さは27km。着工は、伏見城郭の普請と並行して文禄三年から前田家・徳川家によって行われ、続いて慶長元年(1596)毛利一族が加わり同年冬に完成しました。文禄堤は後の江戸時代に、旅人でにぎわう「京街道」として発展しました。

古い町並みが残る文禄堤
■守口宿          図―B
 京阪守口市駅や文禄堤周辺が江戸時代に栄えた「守口宿」で、淀川方向の下町は、今でも格子戸のある軒の低い町並みが往時を感じさせます。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに大勝した徳川家康は、翌六年正月、公用の人馬の継ぎ立てを円滑にするため東海道の巡視を命じ、伝馬を出す宿駅を定めました。東海道は江戸−京都間の121里(472km)。品川−大津までの五十三次の宿駅は広重の版画で知られています。しかし実際は京都−大坂間を結ぶ文禄堤の「京街道」もその延長とみなされ、伏見・淀・枚方・守口も加え幕府の公称では品川宿から守口宿までの五十七の宿駅でした。竜田通りには今も「東海道守口 右大坂左京」の道標が残っています。守口宿は南北平均約10町(1.09km)東西平均約1町(109m)の淀川沿いの細長い町。「東海道宿村大概帳」には旅籠屋は27軒とあり、江戸時代を通じ家数・人数はほぼ200軒・800人前後でした。
■八雲遺跡         図―C
 「八雲遺跡」は、淀川中流が大きく湾曲する河川公園・八雲野草地区河岸付近のこと。昭和46年(1971)、建設省が淀川左岸を改修工事中、八雲北町一丁目付近の河川敷から弥生式土器や土師器・須恵器など多くの遺物を出土し、遺跡として知られるようになりました。著名な出土品に「滋賀里深鉢土器」があり、当初は縄文晩期の集落跡の遺物と考えられていました。次いで近世の徳利などが出土し、今は同じ場所に時代や地層の異なった遺跡がある「複合遺跡」と推定されています。同遺跡の他、弥生時代の4つの遺跡がある守口市域は淀川がもたらした堆積地で、縄文時代前期(6〜7千年前)には海面下にありました。その後干潟を形成、水稲耕作の弥生時代を経て、堤を切る戦乱や自然の水害を被った中近世の歴史があります。時代を超えた出土品からは、水没しては再建されたこの地の集落の、大昔からの歴史ドラマが想像できます。
遺跡が見つかった八雲野草地区

記:滝本明




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