国宝・利休の茶室に残る淀川下りの歴史
 昭和60年に琵琶湖疎水とさざなみの道の会が発足し、「近江文化の源流である隣国の韓国へみず道ルートで旅してみたい」想いがつのり昭和62年8月、石山寺港〜浜大津〜伏見〜宇治川〜淀川〜大阪港〜瀬戸内海経由釜山へと5日間の船旅をしました。

 高度情報社会、スピードと効率第一主義の現在社会にあって往時の文化的状況を推察しながら、将来への文化的展望をも論議する中で自然の流れに身をまかせ時間を忘れ、三十石舟がゆらりと岸を離れた時この旅が始まった。僅か三時間余りの淀川下りの当時を思い出しながら、紀行記念誌より言葉をかりたいと思います。

 記念誌は当時の会長・徳永真一郎(作家)の巻頭言「楽しかった旅」に始まり、目次の一部を拾うと「三十石舟と淀川の旅情」「出会いの旅」「呑み助の船旅」「みず道紀行に詠む」「韓国の姿に日本を思う」「夢の五日間」「コーロンの地下カジノ」「海峡を」「一つの歌の思い出」「陶工に想いを寄せ」「初めての外国」等々、寄稿して頂いた参加者の想いが今も伝わってきます。文中には、…三十石舟で宇治川を通り、木津川と合流し淀川になる地点では思わずシャッターを押すほど感動し、地図の上で見るのではなく、この目で川の合流地点を見たという喜びが…(川崎邦子)、…お酒を飲みながら見る景色も川の堤防が高いせいで、ビルや工場が見えず自然を見る、そんなのどかなもの…(黄瀬三朗)、…毛馬閘門での水位調節は見ていてあきなかった…(近藤孝一)、…水の流れを間近に見て、ちょっとした怖さと同時に優雅さを思い…(中島純子)等、水面から眺める景色がひと味違って見えた非日常的体験が語られていました。

 この度(平成10年秋)11年ぶりに三十石舟で川下りを楽しみましたが、水量の不足から淀付近で断念。歴史を巡ると、船寄場は伏見、大阪とも4ヵ所づつあり、なかでも伏見の京橋と大阪天満の八軒家が有名で休憩所と兼ねた船宿が軒をつらねていました。当時は交通の要所として重要な役割を果たしていましたが、今は一部にその姿を見るだけになっています。

 京都山崎・妙喜庵「待庵」(国宝)の茶室には、利休が淀川を上下する舟にあった“潜り”から思いついて茶室につけたといわれる躙口(小さな出入口)が設けられています。この躙口は他の茶室のものよりひとまわり大きく、躙口を潜ると二畳の茶席になっています。余談ですがここにも淀川の歴史が残っています。

 こじつけかもしれませんが、川の流れと同じで「住宅の玄関ドアも、人を招くことから内開きが本来の自然な姿」だと思います。日本の気候条件、敷地等の都合により外開きが主だと考えがちですが、建築に限らず自然の恵みに即した住環境の考えを、今一度見直してみる必要があります。

 水運が道路・鉄道に転換され、川の利用価値が薄れ川離れが始まり、それにつれて住む文化も変化してしまいました。護岸工事が進み川の表情が少しづつ変化する中、出来る限り自然と共に時代をつくることは出来ないものなのか、河川公園で親子が楽しく遊んで自然を満喫できる場所も大切だと思います。

 川は人間の心を映す鏡だと聞いた記憶があります。行く水は流れにまかせ、かた時も止まらない。過去も未来にもとらわれずただ上流から下流に思うままに。

 またの機会に船下りを楽しみたいと思います。

影石俊則

 
宇治川・観月橋の船着き場に立つ著者

ナンバー 影石 俊則
かげいしとしのり。建築家。1946年2月5日生まれ。滋賀県大津市に建築事務所を開設。
美しい自然と文化財を生かした広域的な『まちづくり』をめざして活動する。現在「琵琶湖疎水とさざなみの道の会」副会長。

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