淀川歴史散歩

―第6回―
「千本つき」歌と鳥飼周辺
■千本つき歌碑       図―A
 鳥飼仁和寺大橋北詰の堤防下に、鳥飼サービスセンターがあります。淀川堤防上を下流の方へ約500m歩いた所に、「千本つきの歌」の石碑が見えてきます。千本つきとは、土木作業の一種の地固め作業のことです。古代から淀川は、沿川に住む人々に多くの恵みをもたらしましたが、その半面洪水が多く、推古天皇の時代から記録に残されているものだけで、250回を越えるといわれています。 そのつど労役に駆り出されたのは、両岸の農民達でした。明治18年の大洪水をきっかけに、本格的な堤防工事が始まり、沿岸の農民達は労働者として河川工事に参加。男達はモッコやトロッコで土を運ぶ仕事をし、女達は五尺(1.5m)ほどの杵を持って堤防上に並び、土砂を突き固める作業を受け持ちました。そのとき歌われた「千本つきの歌」の冒頭部、「千本つきには/調子がござる足と手と口/三拍子」が石碑に刻まれています。淀川の歴史を支えたワーク・ソングが聞こえてきそうです。
右岸堤防上に立つ
「千本つき歌碑」
■鳥養院跡        図―B

此付近鳥養院址碑
 淀川河川公園太間サービスセンターのある淀川新橋(北詰)から、対岸側へ渡り北西へ800m、鳥飼上4丁目交差点を右(北)約150mへ入った所に、宇多天皇 (867〜931)の離宮があったとされる「此付近鳥養院址」の石碑が、新井路という水路近くに建っています。千年前は淀川を望む風光明媚な高台で、通称「御所垣内」と呼ばれ、高野詣、住吉詣、熊野詣の人々が、しばしば足を止めて絶景に見入ったといわれています。古典の「大和物語」に、亭子の帝(宇多法皇)が鳥飼院に遊幸した折り、大江玉淵の娘を召して「鳥飼」というテーマで和歌を詠ませた話があり、「あさみどりかひある春にあひぬれば かすみならねどたちのぼりけり」の出来栄えを大層お褒めになったそうです。近年の摂津市は市街地に変貌しており、4km下流の鳥飼の渡し跡や鳥飼牧跡(鳥飼下三丁目)などに、むしろ往時を偲ぶ風情があるといえそうです。
■鳥飼牧跡      図―C
 鳥飼牧は、安威川の下流と淀川との間に形成された体積地にあったもので、「延喜式」(制度などをしるした書・平安時代927年に制定)の左右馬寮の項に登場する古代の牧場のことです。同書によれば、「摂津国鳥養牧右馬寮」とあり、右馬寮とは官馬の役所のこと。牛車や馬が大切な乗り物だった時代、牛馬は全国からこの鳥飼牧に運ばれて、諸節会・行幸の際に必要に応じて訓練され、京の町に上って行きました。京都への招集は、寮が当該国へ通知し、牽送・管理は国司の責任で行われていました。京都の近くに所在した近都牧六ヵ所のうち、豊島牧と鳥養だけは、右馬寮が直接放飼・繋飼する直属の牧でした。鳥養牧には別荘地や港も設けられていて、「土佐日記」には、宇多法皇没後4年の承平5年(935)、土佐から帰洛途中の紀貫之一行が、淀川をさかのぼって鳥養牧に停泊、鮮魚をもらった返礼に米を与えたとされています。鳥飼(鳥養)の地名は、古代にこの地に住んでいた鳥養部にちなんだものと考えられています。
此付近右馬寮
鳥飼牧址碑

記:滝本明




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